高校あたりは、ヘッドホンかイヤホンが離せなかった。
Shortcut Miffyが好きだった。
FLUIDも好きだった。
クラムボンも好きだった。
片思いのコが吉祥寺住んでて、
偶然予備校が吉祥寺にあったり、
吉祥寺を経由で行けたりしたので、
日課のようにタワレコに通ってた。
当時の吉祥寺タワーレコードのインディースコーナーは宝石箱みたいで、
月2~3000円くらいの小遣いと、毎日のパン代くらいしか持たない僕にとっては、
スティックやら何やらを買っていると、CDは月一枚買うのがやっとのこと。
で、どれにしようか色々と試聴しまくっているうちに、いつの間にか飽きていて、
結局僕が買ったのは、Shortcut miffyとFLUIDだった。
クラムボンを買ったのは結局、大学に入ってからだった。
当時、周りの高校生に薦めても、誰、それ、だったので薦めるのは辞めた。
ごく稀に、「ああ、Shortcut Miffy、知ってる知ってる~」って人が居たりもしたが、
それは音楽ではなく、ただの知識と記憶だったので、僕にとってはどうでもよかった。
つまりは、僕と彼は世界を共有する事は無く、それは只の情報交換でしかなかった。
興味さえあれば後で本なり、インターネットなり、店頭なりで調べれば済むだけの話。
しかしながら、逆を言うと、僕は本当は誰かと世界を共有したかったんだと思う。
だが、僕は人一倍、「感動を与える」って言葉が嫌いな少年だった。
それは、もう、「感動を与える」ってフレーズを聞いただけで悪寒が走るくらい。
今はそういうのに対してもだいぶマシになったが、
企業などで「お客様に感動を提供しよう」っていうフレーズをたまに聞くと笑ってしまう。
感動ってそんな安っぽいもんなんかい。と。
なんていうか、、感動は与えるもんじゃなく、後からついてくるものであって、
与えることを目的とした瞬間から、既にそれは別のものになっている。
だからなのか、僕は小説のあとがきとか、映画の記者会見も大嫌いだったりする。
「俺が感動を~!」って言う人は、
お世辞でも、「いやー、感動しましたー」って言われると、大抵、やたら喜ぶ。
で、やりとりの一部始終が終わってから、僕はすごく切なくなる。
ねえ、それでいいんかい、キミ、と。
「感動」って言葉自体、すごく危険な言葉だと思う。
人間がせっかく持っている複雑で多種多様な感情を、
この、あっけない「感動」という一言で片付けようとしている人間が何人いることだろう。
と、話が脱線して、僕はいったい何を言いたかったのか忘れてしまったが、
ああ、そうだ、思いだした。
この前のあるライブの、バンドとバンドの転換中、
何故か、後にも先にも一曲だけ、toeの曲が流れた瞬間があり、
流れた瞬間、嬉しくて思わずPA席をパッて振り返ったら、
PAの兄ちゃんと目が合って、
「お、坊主、お前もtoe好きなのね」って、ニヤってされて、
ただ、その瞬間も、それ以降も、一切の会話は無く、
曲が終わればまた雑踏のライブハウスに戻っていく。
ああ、あの頃俺はこういう感じで誰かと音楽で繋がりたかったんだなぁって
その時、何故か思った。
なんか幸せだった。
言葉にしちゃいけない感覚。
音楽ってそういうもんでもあるよなぁ。
Clammbon - Folklore [HyakkiYakou 2003]